fc2ブログ

【豚味噌】漢の冬の手抜き料理2013

2013年02月10日 22:30

料理レシピ、グラム数は事実上目分量、適宜増減を。


豚味噌

豚細切れ(ミンチでok)100gを細かく切り、酒少々と共に焼色がつくまで炒める。

麦味噌200g、料理酒150g、みりんと黒砂糖各50-100gを加え、
弱火でかき混ぜながら粘りが少し出てまとまるまで炒める。
甘いなと思ったら味噌を、辛いなと思ったら砂糖を加える、
但しかなり甘いのが基本。

にら1束orねぎ1/2束、すり白ごま適量、すり生姜少量を加えて馴染むまで炒める。
お好みで濃口・薄口醤油や唐辛子や大蒜(極少量)で味を整えてもok。
粗熱を取ったら深皿にとって、冷蔵庫で保存。

※鹿児島の郷土料理、二週間くらいは楽に持つ。
ご飯にかけるのが基本(かけすぎ注意)、野菜スティックにつけても、田楽風でもいける。



●おでん風大根と鶏の煮物

昆布だしかかつおだし(顆粒ok)でだしをとり、
醤油、酒、みりんで通常のおでんや煮物用の汁を大目に作り、少し冷ます。

半月切りにした厚さ3cm程度の大根と一口サイズに切った鶏もも肉を入れる、
一口サイズに切った人参、じゃが芋、白ネギ、蒟蒻も入れてok。
だし汁が具材全てに余裕をもってかぶるくらいの量。

あとは2-3時間ことことぐつぐつ煮込めばできあがり。

※単なる煮物かも。ふろふき大根のようにして、上の豚味噌をかけても美味い。



●インスタント焼きラーメン

ありあわせの野菜(キャベツ、玉葱等)と豚肉を火が通るまで炒めて、別皿に置く。

好きなインスタントラーメン(袋より棒推奨、とんこつ推奨)を、
一人分150cc程度の沸騰湯で、水分が八割ほど飛ぶまでほぐす。
スープを半分程度投入し、混ぜあわせ、肉野菜炒めを入れ、さらに混ぜる。

胡椒、唐辛子、大蒜等、好きな調味料で味を整えできあがり。

※博多の焼きラーメン簡易版、卵やウスターソースをかけてもいいかも。



●水炊きうどん

至って単純。

少しのだし汁でうどんを釜揚げうどんのようにさっと湯がきあげ、
あとは薬味を添えたポン酢やごまだれでいただく。

※うどんのバリエーションにお困りの方に、野菜や肉が入るとただの水炊き。



おまけ

TKGこと、卵かけごはん個人的醤油以外のバリエーション。
薬味は万能ねぎは勿論、胡麻、のり、わさび等をケースバイケースで。

・酢と醤油
・三杯酢
・納豆のたれ
・醤油マヨ
・めんつゆ
・めんつゆと胡麻油
・にんにく醤油
・すきやきのたれ
・焼肉のたれ(塩だれ、味噌だれ、普通のタレ、どれでも)
・豚味噌
・さば味噌煮
・塩昆布



過去の手抜き料理はこちら。
2012年12月
2008年11月
2008年3月


漢の冬の手抜き料理2012。

2012年12月02日 22:30

前回は何と2008年11月、凡そ四年ぶりのレシピ公開枠。


あくまで手抜き料理なので、
役に立つかどうかは貴方の料理の腕次第、良い悪いの意味じゃなく。
そして大体二人分を想定。

ありあわせの野菜…
私の場合、玉葱、人参、ピーマン、長ネギ、キャベツor白菜、にら。



●和風野菜炒め

適当にありあわせの野菜を炒める、出来れば料理酒で少し蒸す。
 ↓
顆粒和だし大さじ1、醤油orめんつゆ大さじ1を入れ、七味唐辛子を軽く振る。
 ↓
少量の水で溶いた生姜を小さじ1くらい入れ、更に混ぜる。
 ↓
ゴマ油を三滴ほど零す。

  ※調味料を顆粒シチューにするとクリーム煮風野菜炒めになる。


●八宝菜

適当にありあわせの野菜を炒める、出来れば料理酒で少し蒸す。
 ↓
中華ねり調味料を大さじ1前後で入れる、胡椒はお好みで。
 ↓
100mlの水に片栗粉を大さじ山盛りくらいに入れて混ぜ合わせる。
 ↓
鍋を弱火にして、片栗粉水をかけてとろみがつくまで炒める。

   ※ご飯にかければ中華丼、焼きそば麺にかければあんかけ焼きそば。


●炊き込みご飯(米1合の場合)

米を普通に炊飯準備する。
 ↓
ささがきの人参、ささみ、ぶなしめじ、蒟蒻、牛蒡、揚げ、を入れる。
 ↓
料理酒を米の10%(0.1合)、醤油をその半分、顆粒和だしを同量程度、ごまを入れる。
 ↓
あとは炊飯されるのを待つ。

   ※具材は適当で。濃口醤油のほうがいい色が出る、九州以外の醤油なら砂糖を少し足してもOK。


●安上がりなモツ鍋

キャベツと玉葱をざく切り、もつは先にゆでとく、にらは適当な長さに切る。
 ↓
和だしorおでんつゆ適量、味噌適量、醤油適当に入れて、野菜ともつを入れる。
 ↓
キャベツが煮えたら、にらを上からかけ、大蒜と鷹の爪(唐辛子)をばらまく。
 ↓
全体が馴染むまで煮る、煮る、とにかく煮る。

   ※もつを牛すじ肉や軟骨にしてもいい、寧ろそちらのほうで作ってる。



●だし巻きに近い卵焼き(1個の場合)

卵焼き器は100円ショップで売ってるチープなやつでいい。
 ↓
卵にめんつゆ小さじ1、黒糖小さじ1、万能ネギ適量を入れる。
 ↓
溶いたものの6-7割を中火で温めた卵焼き器に流し入れ、入れたら弱火にする。
 ↓
くるくる丸められたら同じ工程をもう一回繰り返す。

   ※どちらかと言えば卵焼きを作る材料を言いたかっただけ、かも。

谷川史子さん。

2009年06月11日 23:30

ハチクロことハチミツとクローバー、こどちゃことこどものおもちゃ、
など、姉妹はいないのだが、何となく気になった少女漫画は読んでいる。
君に届けも面白いのだが、椎名さんの作品は初期の短編のほうが好きだったり。


そんな私がずっと読んでいる少女漫画家がいる、谷川史子さん。

90年代は主にりぼんで短編を執筆し、00年代はCookieなどで書いていて、
最近はアワーズなんかでも作品を発表している。
東京マーブルチョコレートというアニメ映画で知ってる人もいるかもしれない。

特に初期は、あの少女漫画特有のキラキラ感が抑えられ、
素朴、地味とも言えそうな画風で、当時の(今に続く)王道から外れていたとしても、
それ故に固定客をつかんでいたらしく、比較的男性読者の割合が多いらしい。
主に短編、長くても単行本一冊(しかもオムニバス形式)の作品が多く、
それを越えると正直なところ、迷走してしまう気がある。


そんな外輪ばかり書いてもしょうがないので、私なり、の部分を書いてみる。

高校の時、図書館で下級生の女子から借りた単行本、「外はいい天気だよ」
これが見事にクリーンヒットだった。

上記のような画風はさることながら、
幼馴染という非常に私のツボを突く作風、王道ながらも少し踏み込んだもどかしさ、
現代小説一点張りだった私のライブラリーは、
それからしばらく少女漫画が多きを占めたほどだった。

ちなみにこの幼馴染シンドロームは大学の後半まで続き、
私の中でケロイドになってしまった感さえもあったりする。


最近は結婚されたこともあってか、
ジュブナイルラブストーリーからウォームフルライフな作風へ変貌していっているものの、
谷川さん特有のほのぼの感は健在で、
読み応えというよりも読後感の良さが心に残る、ずっとそんな作品を紡いでいる。

今でも私の本棚には谷川さんの単行本が全巻揃っていたりする、
たまにからっぽの時にふと読み返して、心に少し潤いを与えたりする存在だ。


個人的お薦め

◆「緑の頃、わたしたちは」(単行本「きもち満月」収録)
悲しくも透き通った恋、これを一番に推す人も多い隠れた代表作。

◆「ごきげんな日々」(単行本「ごきげんな日々」収録)
先述のジュブナイルラブストーリーモノです、一つ前の世代という感じでいいです。

◆「ちはやぶるおくのほそみち」(単行本「花いちもんめ」収録)
デビュー作品で筆は荒いのですが、最もストレートな作品かもしれません。

◆「君と僕の街で」「各駅停車」(同名単行本収録)
一話ごとに主人公が変わりながらもつながるオムニバス、谷川さんの骨頂の一つ。

あげてみての私観、若さにまだ捕われてるのか学生主人公の作品ばかり、
年を経るごとにつれて最近の作品の味もより染みてくるんだろうな、と思ったり。

月刊誌で紹介されました。

2009年05月30日 12:00

200907.jpg

タイトルの通り、
Macfanというマッキントッシュユーザーのための月刊誌、
その最新号である2009年7月号(5月29日発売)で、
私の壁紙画像、並びにホームページが紹介されました。

上記Macfan様サイトでも紙面連動企画として紹介されています。
紙面連動→オンラインソフト→霧深き。 がそれに当たります。

※FC2ブログは画像のダイレクトURLが403forbidden扱いになってしまうため、
玩具籠-toycage-入口に現在、お断りを入れてあります。


大元となったのはこの画像です。

20090417-09.jpg


こちらの壁紙画像を@start壁紙館様(eRoiMo投稿分)に「霧深き。」というタイトルで投稿した数日後、
担当者様から「こちらを使わせて欲しい」メールを戴きまして、
WindowsユーザーがMacの雑誌に載ってもいいのか、などと思いつつ、
上記のようなことになりました。


思いっきり個人趣味と自己満足のサイトですが、
、どうそこれからもよろしくお願いします。

男の冬の手抜き料理。

2008年11月25日 21:27

一野郎の手抜き晩餐レシピをネタがないので紹介してみる。

料理が趣味の範疇にある人は見ないほうがいい、あまりに手を抜きすぎているので。
あと、オリーブオイルや長葱やごまだれを買ったことがない人は見ても徒労かも。


分量は適当、自己判断で加減して下さい。


●似非和風ぺペロンチーノ

水を100mlとコンソメ小さじ1杯ほど入れる。
 ↓
沸騰する寸前くらいに細かくみじん切りにした大蒜一かけ入れる。
 ↓
具材(ベーコンウインナー・きのこ類・魚のほぐし身etc)を入れる。
 ↓
沸騰しだしたら胡椒と鷹の爪小間切り(一味唐辛子)もかなり多めにふりかける。
 ↓
オリーブオイルを適量(表面に薄く広がる程度)かける。
 ↓
パスタを煮て、ざるにあけたらゆで汁を50~100mlほど入れる。
 ↓
なじんだら薄口醤油を小さじ1入れて、これもなじむまで混ぜる。
 ↓
パスタを投入して混ぜ合わせて、皿に盛れば完成。



●豚汁風煮込みうどん

鍋に水を張りだしを取る、市販のだしの素でOK。
 ↓
野菜(白菜・長葱・人参etc)ときのこ類・豚小間(鶏肉でもOK)・白身魚の切り身を入れて煮る。
 ↓
それらに火が通ったら弱火にして豆腐を入れる。
 ↓
味噌を溶かして、溶けきったらうどんを入れて煮込めたら火を止める。
 ↓
鍋敷きに置いて皿にとることをお薦めします、七味があるとよし、これで完成。

(応用:キムチ鍋)
味噌の代わりにキムチを入れる、この場合勿論七味は不必要。
ただしだしは少し濃いほうがいい、味を調えるために醤油を入れるのもあり。



●ガスコンロのない水炊き

鍋に水を張りだしを取る、昆布がベター。
 ↓
沸騰しだしたら野菜(白菜・長葱・人参etc)ときのこ類を入れて煮る。
 ↓
それらに火が通ったら弱火にして豆腐を入れる。
 ↓
しゃぶしゃぶ用豚肉or豚小間を最後に入れて、あくを取ったら出来上がり。
 ↓
ごまだれ(胡麻ドレッシング)とポン酢(大根おろしがあるとベター)を用意する。
 ↓
鍋敷きに置いて皿にとって下さい。
 ↓
最後にうどん玉やちゃんぽん麺を入れてまた鍋から火にかけて食しても美味しい。



●適当にも程があるカルボナーラ

卵黄2個と牛乳100ml、薄口醤油とコンソメと胡椒を少々混ぜてソースを作る。
 ↓
ベーコン(ウインナー)を適当に切り、玉葱をみじん切りにしてオリーブオイルで炒める。
 ↓
パスタを煮てる最中にソースを入れて弱火でとろとろ煮る。
 ↓
適当なところでチーズ(スライスチーズを細かく切ればOK)を入れて溶かす。
 ↓
パスタを入れる、ゆで汁、大蒜みじん切りはお好みで。
 ↓
なじんだら皿に盛り、胡椒を多めに振りかけてできあがり。



「皐月、神戸は涙雨」 (4)帰宅してからのこと

2008年05月14日 21:01

註:先ずは左欄か下にある【「皐月、神戸は涙雨」 (1)金曜夜までのこと・(2)土曜昼のこと・(3)帰宅するまでのこと】 からお読みください。

---------------------------------------------

 飛行機に乗るのは三年半振りだった。精神の快復を図ろうとするように、小さくなる街や米粒ほどの島、ペンキを塗ったような海、青が様々なコントラストを描く空、規則性を孕んだ雲を撮る、何かに憑かれたように。気が付けばフライト一時間強で三桁を越える写真がピクチャーカードの中に収められていた。
 着陸、鹿児島は快晴、まるでそれまでのことが夢であったと言わんばかりに。
 鹿児島中央駅直行のバスに乗り込む。隣には関西訛りの同年代の若者が三人、串木野がどうだの話していた、疲れきった私に、彼らの言葉はつい数時間前までいた場所へのゆり戻しを起こさせた。
 そうして市電に揺られて帰宅、一通りの休日にするべき家事を済ませ、それから風呂につかって体を洗い流し、明日の準備を済ませた。そしてそれも粗方形がついた後、心を落ち着けて、ゆっくりと知る限りの彼の足跡をたどった、数年前から遡れる残してくれたメッセージなんかだ、丁寧に、時間をかけて読み干す。
 この時も、そしてここ数日は色んな思いが頭の中を駆け巡った。Mとの間柄がどことなく曖昧なものであったことは否定しようもない、ネット上の関係というのは信じられないほどに脆く、そして寂しいものだということは幾度も経験してきたことだった。
 だが私は、Mをそれでも、一度も逢ったことがなくても友人と呼ぶことができる、それは繰り返しになったが確かなことなのだ。

 私には一つだけ、心残りがあった。財布の中からそれを引っ張り出した。
 小さな小さな手紙。
 今、こうして書いている手元にはないのだが、その文面ははっきりと、一字一句思い出せる。
 「最後に柩の中にさ、花を入れるときがあるじゃない、その時にこれも一緒に入れたいね」と再会直後の喫茶店でCと話しながら書いたものだった。結局先述の通り、人の多さにそれは断念したものの、やはり何らかの形でこれはMへと届けたい、そうずっと考えていたし、一つの形が葬式が終わった後で次第に自分の中で出来つつあった、家に着くと同時にそれは確かなものとなって私の脳裏に息づき始めた。
 CやDとメールで思い出話などしながら、頭が白く染め上げられそうなのをこらえながら日記を書く、どうしても書かなければ気がすまなかった。まるでここ数日のことがなかったかのように均質に時は流れ、やがて寝る時間が迫ってきた。
 午前零時。
 私は鍋を食器棚の奥から取り出し、ベランダへとそれを置いた。それは食事を作るのに使用するではない、他の用途のために置いてあるものだった。その鍋へとさっきの文面を置いた手紙、取り付けたかった約束の付箋、ホテルに置いてあった折鶴を重ね、マッチで火を点した。
 乙女的な感傷と呼ばれようが、ドラマの主人公気取りとか言われても構わないし、その時はそんなことを微塵も思わなかった。これが彼に出来る私なりの流儀であり儀式だったのだから。
 折鶴がこの手紙を載せて、Mに届けてほしい、そして付箋の約束がいつか叶うことができるように。笑われようがなじられようが、私は心からそう願ったし、そしてこれを書いてる今でさえそう願っている。
 焼かれていく紙三つを燃え尽きるまでじっくりと眺め、燃え尽きたのを確かめてから私はそれに焼酎をかけた。火の消える音がベランダ中にこだました。
 そして、この数日で何百回も思い、何十度も口にした言葉を、これで最後にしよう、そう決めて万感の思いをこめて呟いた。
 「…生き急ぎやがって!」

---------------------------------------------

とりあえず、先週末のことは以上です。
どう言えばいいものかわかりませんが、
何だかもう既に遠い遠いことになってしまったような、そんな印象さえ受けてしまいます。

端折ったつもりだったのですが長い話になりました、
読んでいただき有難うございました。

「皐月、神戸は涙雨」 (3)日曜昼までのこと

2008年05月13日 21:55

註:先ずは【「皐月、神戸は涙雨」 (1)金曜夜までのこと・(2)土曜昼のこと】 からお読みください。

-----------------------------------------------------------------------------

 帰り際、バスの中を埋め尽くした黒服は電線に止まる烏の群れを私に思わせた。
 とにもかくにも三人揃い、Mのことと雑談を織り交ぜながら来た道を辿る。三宮駅側のビジネスホテルをCが予約してくれていた、荷物を置き、私服に着替える(おそらく清掃後の証しなのだろう、折鶴が寝巻きの上に飾られてあったので、それを財布の中にしまった)。Mのこと、それ以外のこと、久々の再会、とにかく色々と話したくてに神戸に一泊することにしていたのだ。
 一階にある10分100円のインターネットで帰りの飛行機を予約する。精神的疲労が強く、帰りの手段を迷っていたのだが、結局一番速いものにした。
 三宮周辺を小雨がぱらつく中をぶらぶら歩き、うだうだ話しているうちにいつの間にか夕暮れの時間になっていた、一瞬で切り替えができるほど器用な人間はいないだろうが、それでも再会できたこと、それが嬉しかったのは事実だった。
 見慣れない街というのは巨大な迷路のようなものだ、土地勘がない場所では携帯電話のGPSもネットから印刷した地図もあまり役にたってはくれない。
 夜が迫り、近くの居酒屋で積もる話の続き。
 「もしかしたら変な言い方だけどMが引き合わせてくれたのかもしれないね、じゃないと多分Mが死んだのを知ったのは早くて昨日、多分今日だったと思うんだ」
 Cが違和感に気付き、不安にかられ、何とかMに連絡をとろうとしたことから私もMの死を早期に知ることが出来た。その不安を相談された当初、私はCの不安が単なる心配性とばかり思っていた、情けない話だ。
 「うん、じゃないと、これから、Mじゃないけど何かあって再会することが出来なかったかもしれないしね。…地元なんだしここにMがいてくれたら言うことはなかったんだけど」
 「あいつに、Mに言ってやりたいね。絶対に許さない、忘れるもんか、って。…だからさ、それがMの生きた証じゃなくてもいいけど、報われになってほしい、なんて。実際に顔合わせてなくてもこんなふうに集ってるこの三人がいるわけだし」
 大体こんなことを語ったと思う。
 そして、数年に一度はこうしてどこかでまた集うようにしようと約束した。
 幾枚か記念撮影もしたが、自分の顔は、帰宅後見返してみるとどこかぎこちない気もした。
 23時半、二次会というわけではないが、しばし私のシングルルームで語った後それぞれの部屋に戻って就寝。しかし、私はいつまでたっても寝付けなかった、買い置きの酒をあおっても一緒だった、いくら飲んでも酔えないのを経験したのは久々で、布団に転がると思考が逆にあさっての方向にさえ向き始めるようになった。例えば、「逢えてたら」を越えて「逢った後で、その後どうなったか」というような、仮定に仮定を積み上げていく、そんな方向だ。
 結局、最寄のコンビニへ行って更に酒を注ぎ足し、思考停止状態になるまで酔ってようやく寝た、最後に時計を見たのが2時半だったのは覚えている。
 翌朝、7時半起床。旅で気が張っているせいだろうか、日頃なら夕方まで二日酔いで動かなくなっているくらい飲みに飲んだはずなのに、体の中にはほんの僅かな酒しか残っていなかった、二日酔いとも呼べないレベルだった。
 8時、チェックアウト。目についたカフェでモーニングを食べながら、あっという間の別れを惜しむ。実際共にいた時間は一日もなかったのだ、しかも慌しい日程だったため、腰を落ち着けたのは居酒屋の時くらいだったかもしれない。
 そして再び再会を約束する。
 曇天の下、三宮駅にてDと別れ、そのままCと私は伊丹空港のバスに乗る。少しずつ整理がつくようにお互いなってきたらしく、実のない話に花が咲く、それが何だか有難かった。
 神戸の街が遠ざかるのを何とはなしに眺めながら、昨日葬式に出席した人々はそれぞれ、今何をしているのか考えようとして、やめた。おそらく二度と目にすることもないであろう人々と、同じ思いでいたこと、それだけは確かだった。
 搭乗時間が先立ったCを見送り、一人、あてもなく空港周辺をうろついては目的もなくデジカメを様々な被写体に向ける。風景撮りを趣味にして4年半になるが、最近は得てして自分の精神状態を投影するものが多くなってきた。曇天の曖昧さと、無機質なモデル、その時のスナップは反語的な投影をそこに残した。
 かれこれ二時間程度待ち、搭乗。13時30分伊丹発鹿児島着。
 飛行機が滑走路を走り始めた時、自分の意志とは無関係に言葉がこぼれた。
 「さよなら。出来るなら、生きているお前に一度会いたかったよ」
 スリーテンポほど遅れて、自分の台詞にはっと我に返った。視界が微妙にぼやけていた、頭を垂れ、私はひたすらにこらえた。
 やがてそれさえも吹き飛ばすように、大きな重力がかかり、飛行機は離陸した。曇天は消え始め、眩しい初夏の陽射しが街を突き刺し始めていた。

「皐月、神戸は涙雨」 (2)土曜昼のこと

2008年05月12日 22:18

註:先ずは【「皐月、神戸は涙雨」 (1)金曜夜までのこと】からお読みください。

-----------------------------------------------------------------------------

 三宮駅前で降りる、CとDは先述の通り、最寄の某駅で待ち合わせることになっていた。
 CとDとは三年半前、東京で一度逢っているので再会になる、「出来る事なら別の形で…」というのが三人の共通した感情だった。そしてCだけがこの中で唯一生前のMと逢っている、『おちゃらけもするけど根は生真面目な人』というのがCの印象だったようだ。
 時刻表を見て、少しばかり時間に余裕があったので阪神大震災のモニュメントを見る。ガラスケースの中の「希望の灯り」に、13年前と数日前のことがどこかオーバーラップし、やるせなさがさらに増した。Mも阪神大震災を経験したと以前聞いていた。
 三宮駅から乗り継いで某駅に着く、Dはギリギリになりそうということだったのでタクシーで「ここまで」と告げてくれ、と住所を知らせ、Cを周辺をほっつき回り歩きながら待っていた、Mの庭とも呼ぶべき街を。10時過ぎ、Cと合流、久々ではあったがまるでつい先日逢ったかのように振舞えることが有難かった。
 近くの喫茶店に寄り、とりあえず体勢を整える。チャットやメッセでのことや東京でのこと、CがMと逢った時のこと、そして葬儀でのこと、水が流れるように話は続く。窓の外を歩く人々の中に黒服の人々が目立ち始めたのを見計らって外に出た、行く先のバスには長い列が出来、その半数は私たちと同じ喪服姿だった。
 バスに乗り込み、暫く揺られて降りる。道に迷い込みながらもどうにか到着する。
 式場から溢れ出さんばかりの人、人、人、人。こんなに来たのか、とMの交友関係の広さにCと顔を合わせて驚いた。
 ひしめき合うその中で記帳を済ませ、中へ。しかし既に満杯で靴を脱いで数歩歩いたところで動けなくなり、立っての参列になった。少し余裕を見たつもりだったのだが甘かった、私たちの後にも次から次へと参列者は増えつづけ、終いには会場外へとはみ出す状況に。
 途中一度抜け出してDを捜すも見つからず、結局Dと合流したのは出棺直前になってからだった。
 祭壇にあるMの顔は私が以前写メールで貰ったものとは若干印象が異なっていた、もう数年前のことだから違って当たり前なのかもしれないし、飾られているのはもっと前の写真なのかもしれない、遠目で見る限りそれは分からなかった。
 おそらくそれは逆も然りで、確か私が送った写メールは、今よりも体重が10kgか20kgくらい多かった時のものだ、Cにも出会い頭「本当にやせたねー」と言われたが、おそらくMも同じことを空の上からでも柩の中からでも、もし私に気付いてくれたなら思っただろう。
 「これだけの人たちに送ってもらえて、Mは本当に幸せ者だよ」この言葉を何度も何度も口の中で繰り返した、Cに何度か言ったかもしれない。
 厳かに、段々と悲しみの色を増しながら式は進む。口の中、手のひら、足先に次第に力が入る。哀しみに程度の差などない、ここにいる誰もが哀しみ、Mの死を悼んでると、末席ながらそう思っているし、私も哀しいからこそここまで来たのだ。
 出棺間際の最期の別れ、私たちは花をそこに入れることはしなかった。あまりにも人が多すぎてとても全員分手配されるだけの分量も時間もなかったのだ(私は結局、Mの身体そのものを見ることは出来なかった、でもそれでいいと思う。先述の繰り返しになるがこれほど沢山の―Mの友人が後にCに送ったメールには参列者は400人とあった。まだMが死んだこと分からなかった時、Cが不安に駆られMにメールを送った後、そのMの友人からメールが来て、それからメールを交わしている、とのことだった―人々に見送られるのだ、私たちはその隅にいるだけでも十分意味はあると、そう思った。この数百分の一でいい、と)。
 大学での仲間たちなのだろう、歌が歌われ始めた。それがどんな曲かは分からなかったが、きっとMはそれを聞いて、感謝と涙で何処からか答えているに違いない、そう信じた。途中、その中から、いやそれ以外からも号泣や嗚咽が漏れ出し、暫く爪の跡が手のひらに残るほど、私は拳を握り締めた。
 Mとの会話はおちゃらけた感じが殆どだった、だからこそ最期もなるべくなら涙で送り出したくはない。とても笑うことは出来ないが、泣くことはそれ以上にしたくない、ここに来るまでに私が考えていたことだった。
 出棺。偶然その近くに居合わせた私とDは柩を持つ機会に恵まれた。Dが左後方、私が右後方と言った具合で陣取る。右手に重みを感じながら、その手に言葉を込めるように力を入れた。
 「(俺がえろいもだぞ、これからもっと親しくなりたいと思ってたんだ、…逢えなかったのは俺のせいだな、すまん。…こんな形が出逢いになっちまったけど、じゃあ、また、どこかで)」
 ほんの十秒ほどだったと思う、そして、柩は私の手を離れた。
 出棺の時も先ほどの歌は何度も何度も繰り返し流れ続けた、嗚咽と号泣が混じりながらのそれは、私の中でこう書いてる間も流れている。
 出棺後、結局渡せず終いだった品を係員らしき人に手渡した、もしも逢えたら必ず渡しただろうとある郷土菓子で、葬式にはとても似合うものではないが、どうしても私は渡したかったのだ。
 もっと早く来ていれば直に渡すか、祭壇の何処かに飾ることも出来たと係員らしき人に聞いたが、Mの家族にこれが渡るだけで私は満足だった。三人の署名と僅かな文言をつけて、ご家族と友人に渡してください、と言って外に出た。
 空はまだ、涙雨を続けていた。


最近の記事